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第2次世界大戦直後まで、住宅は大工棟梁が鳶、屋根、板金、左官、建具など多くの職方取りまとめそうしたネットワークで作られてきた。材木商も大工棟梁のパートナーであり、関係者はすべてが自営業者の集まりで、需要者に対して商品としての住宅を供給してゆく住宅供給業者(サプライヤー)といった企業組織ではなかった。 その後自営業の法人化が進み、大工棟梁も工務店の社長となったが、あくまでも納税に関しての都合から法人化されたもので、そのために会社名が必要となり、工務店といった名称が使われたに過ぎず、やっている仕事の内容はそれほど変わっていない。 住宅供給業者が登場したのは、1940年代後半から始まった前積式割賦販売による住宅供給業者の出現からである。1950年には殖産住宅相互(株)も設立され、殖産住宅、日本電建、太平住宅3社で、一時期は日本の住宅の30%ほどが供給する程の勢いであった。こうした前積式割賦販売の住宅会社は、第一世代の住宅供給業者と呼ぶことができる。 住宅金融公庫が設立されたのは1950年であるが、一般のサラリーマンや個人経営の店舗オーナーなどにとっては、公庫融資は利用できず、毎月お金を積み当て、ある程度貯まったところで住宅が手に入り、後は割賦で返してゆくといった、いわば無尽講的な前積式割賦販売の方が身近な存在であった。 第一世代の住宅供給業者である前積式割賦販売の住宅供給業者は、協力施工店としてわが国で初めて工務店の組織化を行い、下請けとして住宅の施工および施工管理を任せた。多くの営業マンを抱えに前積式割賦販売の営業にあたった。 さらに多くの一級建築士を社員として設計業務を行った。そこから先の施工業務は傘下の工務店が担当した。協力施工店である工務店とも当初は良好なパートナー関係があり活気があった。協力施工店が集まり、技術向上の勉強会も行なわれ、また住宅に大きな被害を受けた1959年の伊勢湾台風では、その復興に殖産住宅が傘下の工務店を集め、何十台といったトラックを仕立て資材と職人を乗せて駆けつける程であった。 第一世代の住宅供給業者は、設計業務は自社で行っていたので、1970年代後半に始まったCADシステムの導入による合理化には対応することができた。しかし1980年代に入ると、木造軸組構造材プレカットなど新たな施工合理化技術が登場したが、協力施工店に施工業務を任せていた第一世代の住宅供給業者は、施工合理化への対応が遅れてしまった。 さらに1954年末の「神武景気」からオイルショック後の1974年まで20年間ほど続いた平均年率10%といった高度経済成長で、前積式割賦販売そのものも時代に合わないものになっていた。 2002年1月に殖産住宅相互(株)が民事再生法適用を申請、新築部門をペイントハウスが買収され、また2002年9月日本電建(株)は、大東建託(株)に事業を譲渡し大東住託(株)になった。2003年1月には太平住宅(株)が、東京地裁から破産宣告を受け、第一世代の住宅供給業者は、創業からほぼ50年でその幕を閉じた。
by thirdage
| 2012-06-07 17:04
| 第三世代の住宅供給業者
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